【3月13日】日记


流浪之旅/放浪の旅

alt text

1.中文【3月13日】流浪之旅


10年前的3.13。地震之后的第三天。
清晨,乘坐3台小型直升机,从东京和埼玉交界处的机场,飞往气仙沼的湖山的老人保健设施。
机身像蜻蜓一样,金鱼缸似的机肚里有4个座位。
后座上装满了巧克力和点心。
从金鱼缸机身的地板上可以看到正下方。
下面的森林,山,还有海岸线。
一个小时后驶向了海湾线。
不久后就看见了远处冒出白烟。
事后才知道,那是核电站烟囱里冒出的水蒸气。
海岸线上,白色的木材从海上拍打着。
幸运的是,那时我不知道那些白色的木头是人。
天空中没有飞机。处于禁止飞行的状态。
为什么只有这架直升机在飞呢?
作为一架私人飞机,我得到了特别的飞行许可。
目的是自费为气仙沼的介护设施运送医疗救助物资。
也就是后座里放的可以补充卡路里的巧克力。
两个半小时后到达气仙沼上空。
用iPad的谷歌地图,俯瞰寻找。
但我真的不知道。
森林、林中可见的白色大型设施。
是小学,还是别的特养,还是湖山的老人保健设施?
所有人都被掩埋在绿色森林中的白色设施中。
从空中无法分辨。
今后,设施地址中应该把经纬度也记载上。
从而为直升机出行做准备。
救援直升机也不知道应该把救援物资降落到哪里。
在山上三个白色目标中的一个,瞄准,降下着陆。
取得了航空局的许可,将设施旁边的停车场作为着陆场所。
航空局问我,如果停车场里挤满了车怎么办?
当时是用扩音器从上空大声喊叫,让把车开了让出地方来,我们也用电话大声喊叫起来。
事实上,车都去市区找家人了,停车场是空的。
3台直升机突然从空中飞来,似乎让人大吃一惊。
设施中因断电而漆黑一片。
一进门,漆黑的大厅里,一位穿着和服的年长女性向我走来。
大厅和日间介护所被受灾民众中年长的妇女占据。
据说是被从市区开车送来的,大家希望能把父母寄养在这。
后来数了一下,算上当天日间介护所的利用者,有100多人。
对于突然见到的陌生同志只是感激,在意的是还活着。
职员看到飞到现场的我也惊呆了。真的吗?真的吗?
我也觉得不是真的。
地震是,直升机之旅也是。
设施黑暗而阴冷,冷冰冰。
一楼铺满了被子,让来设施的人睡觉,可地板却是冰凉的。
总之就是把纸箱打碎,铺在被子下面。
这样做了之后意外的暖和了很多。和露营一样。
作为巧克力、点心、紧急食品的交换,得到了大家都在吃的盐饭团和速食味增汤。
用办公室的应急电源,在地板上摆了8个电饭煲和电热水壶。
因此,无论是职员、利用者,还是逃进来的老年人,都平等地分到了一个饭团。
有几名职员因为联系不上,无法确认其存活。
要一周后才能确认所有员工的生存情况。
大家都在找自己的家人。
直升机飞到米泽机场为回程加油。
但是再也没回来过。
没有买到机油。
本来是来救援的,可自己也遇难了。
我没有告诉父亲也没有告诉干部,自己就来了,我以为在东京会引起轰动,但谈不上。
山顶的设施里,被困了200多人。
电和水都停了,开始从附近的泉水协调饮用水。
手机要从汽车上充电,来保证可以接通。
把排泄物从悬崖上扔掉。
第二年再看,悬崖繁花盛开。真的。
我想要狼烟,信鸽。真的。
一筹莫展地坐在地板上。
只有依靠人的温暖,才能有活着的实感。
互相帮助。大家都很开朗,没有灰心丧气的人。
究竟,自己是来干什么的呢?
直升机回不来也联系不上,正目瞪口呆的时候,面包车、救护车陆续赶到。
来自山形医院的湖山支援部队。就像,幌马车队。
在黑暗的玄关里进行迎接,双方都以为对方莫不是幽灵。
互相认为对方不可能在这里。
对我已经到达气仙沼感到不可思议。
据说本来是马上就从山形出发了,但是由于道路被封闭,又重新折回来重新出发了3次。
天快黑了。我留下直升机,搭上他们回程的车,首先去了仙台。
但是,仙台的酒店也是满的,直到深夜,被送到了福岛县二本松的特养。
之后也没有什么打算,深夜,支援的救护车从静冈的医院来到了二本松。
我得到了一个特别车辆的许可,这样就可以在高速公路上行驶了。
从福岛返回,中途从返回静冈的救护车下了车。
去的时候,坐直升机2个半小时。回程换乘,花了两天时间。
尽管如此,我还是活着回了东京。
遇难之旅两天就结束了。
很感激自己还活着。
这是一生一次的公路电影。
地板上的冷、人的温暖的温暖、饭团的美味、在灾区相遇的感激。
每个人都在拼命。每个人都很不安。但没有人哭泣,也没有人任性。
每个人都互相帮助,互相鼓励,心平气和。
不是噩梦的两天。
这是我生命中宝贵的两天,让我相信了别人。
要熬过真正的苦难,不需要强大的力气。
而是安静地相信别人。
如果做不到相信,就做不到等待。
今天再次这么想了。

2.日文【3月13日】放浪の旅

10年前の3・13。地震の2日後。
早朝、東京と埼玉の端境の飛行場から、3台の小型ヘリコプターで、気仙沼の湖山の老人保健施設に飛んだ。
トンボのような、機体に、金魚鉢の中に座席が4席。
後部座席には、チョコレート、お菓子を一杯に積んで。
金魚鉢の機体の床から、真下が見透せる。
眼下の森、山、そして、海岸線。
1時間も経つと、湾岸線を辿る。
やがて、遠くに白い煙が、立ち上るのが見える。
それは、後になって知るのだが、原発の煙突から上がる水蒸気だった。
海岸線には、海から、白い木材が打ち寄せている。
その白い木材が人であった事は、幸いにも、その時には分からなかった。
空に飛行機は飛んでいない。飛行禁止の事態。
何故、このヘリだけが飛んでいるのか。
民間機として、特別なフライト許可をもらったのだ。
気仙沼の介護施設に医療救援物資を自前で運ぶと言う目的で。
カロリー補給のチョコがその全てだった。
2時間半で、気仙沼上空に着いた。
iPadのグーグルマップで、眼下を探す。
でも、本当にわからないのだ。
森や、林の中に見える白い大きな施設。
小学校か、別の特養か、湖山の老人保健施設か。
皆、緑の森に埋もれる白い施設。
空からでは、区別がつかないのだ。
今後、施設住所には、緯度軽度も記載すべきだ。
ヘリで行く時の為に。
救援ヘリもどこに救援物資を落として良いのかわからない。
山上の三つの白い目標の中の1つに、狙いを定めて、降下着陸した。
施設隣の駐車場を着陸場所として、航空局の許可を取っていた。
航空局は、その時、駐車場が車で一杯だったらどうするのかと質問して来た。
その時は、上空から、スピーカーで怒鳴り散らして、車を動かして開けさせると、こちらもわめき返した。電話で。
実際には、車は、市内に家族を探しに行っていて、駐車場は空だった。
空から、突然のヘリ3台の飛来は、驚いたらしい。
電気の途絶えた真っ暗な施設。
玄関に入ると、真っ暗なロビーから、和服の年配女性が、一杯向かってきた。
ロビー、デイは、被災民の年配の女性で占められていた。
親を預かって欲しいと、市街地から、車で届けられたらしい。
後で数えたら、当日のデイ利用者を含めて、100名以上はいた。
見知らぬ同志の突然の遭遇は、只々感激。生きていましたか。
職員も飛来してきた代表の私を見て呆然。そうでしょう。そうでしょう。
こちらも、現実の事とは思えない。
地震も、ヘリの旅も。
施設は、暗くて寒い。冷たい。
一階に布団を敷き詰めて、入所利用者を寝かせていたが、床が冷たい。
兎に角、ダンボールを壊して、布団の下に敷かせた。
これが、意外に暖かいのだ。キャンプと一緒。
チョコ、お菓子、非常食と交換で、皆さんが食べている塩おにぎりとインスタント味噌汁をいただいた。
事務所の非情電源で、8つの炊飯器と電気ポットが床に並ぶ。
それで、職員も利用者も、逃げ込んできた高齢者も、皆平等に、おにぎり1個を配られていた。
職員で、連絡がつかず、生存確認ができない人が数人いた。
職員全員の生存確認ができるは、1週間後になる。
皆、家族を探していたのだ。
ヘリは、帰りの分のガソリンを給油しに、米沢空港に飛び去った。
でも、2度と帰って来ることはなかった。
ガソリンを売ってもらえなかったのだ。
救援に来たはずが、自分も遭難してしまった。
父にも幹部にも言わずに来たので、東京では、大騒ぎだろうとは思ったが、それどころではない。
山頂の施設に、200人以上が閉じ込められている。
電気水道が止まり、近くの湧水から、飲水を組んでくる。
自動車からの充電で携帯電話は繋がる。
排泄物は、崖から捨てる。
翌年見たら、崖は華で満開だった。本当です。
狼煙や、伝書鳩が欲しい。本当です。
途方に暮れて、床に座り込んでいる。
人の温もりだけが、生きている事の実感。
助け合っている。皆明るく、挫けている人などいない。
一体、自分は何をしに来たのだろう。
ヘリが戻らず連絡もつかず、呆然としているところに、ワゴン車、救急車が続々と到着する。
山形の病院からの湖山の支援部隊。まるで、幌馬車隊だ。
暗い玄関で迎えたが、お互い、まるで幽霊かと思った。
お互いに、ここにいることなど想定できない。
私が、気仙沼に辿り着いているなど、思うわけがない。
山形からは、すぐに出発したのだが、道が閉鎖されていて、3回、出直したそうだ。
もう暗くなる。私は、ヘリを残して、帰りの車に乗せてもらい、まずは、仙台を目指した。
でも、仙台もホテルは満杯で、深夜迄かけて、福島県二本松の特養迄送って貰った。
その後の算段もなかったが、深夜、二本松には、静岡の病院から、支援の救急車が来た。
こう言う時の為に特別車両の許可を貰っていたので、高速を走れたのだ。
福島からは、その救急車の静岡への帰還の途中の東京で下ろしてもらった。
行きは、ヘリで2時間半。帰りは乗り継いで、2

3.解説【3月13日】放浪の旅

  • 代表は、連日のように10年前の3・11東日本大震災の際に採った行動について述べています。
  • 今日は、大震災発生の翌日ヘリで救援物資を運んだこと、現地の人々の状況などに触れています。
  • 日記からは、誰もが助け合い、励まし合い、落ち着いていたという人々の温もりが感じられました。
  • 本当の苦難を乗り切るのには、力強さよりも静かに人を信じることのほうが、大切だと分かりました。


alt text


用户7825 用户7825
5 个月前
2

扫描下方二维码手机阅读文章