【2月14日】日记


10年前的3.11/10年前の3.11

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1.中文【2月14日】10年前的3.11


因昨晚11点左右的地震而惊醒。
据说是10年前3·11东日本大地震的余震。
我记得那时候地震发生在星期五的白天。
然后,我在3·13星期天,乘坐3架直升飞机,满载救援物资,飞往气仙沼。
飞过冒烟的核电站,俯瞰人们被冲上海岸,经过2个半小时降落在气仙沼老健的停车场。
走进昏暗的玄关,大厅里有150位接受日常护理的老人。
很多人都涌向玄关,想看看这位突然来访的客人。
往里一看,他们盖着棉被,铺着垫子。
首先,我把纸箱拆开,让他们把纸箱铺到被子下面。
总之非常冷。
星期六下雪了。
气仙沼海岸老人保健设施的入住者虽逃到屋顶,但很多老人被冻死。
半夜下了雪。
听说三分之一的用户都被冻死了。
建筑物里的电、煤气、自来水都停了,冷得快要冻僵了。
设施里一片漆黑,用的是办公室里的紧急电源,电饭煲和电热水壶。
地板下摆放着8台电饭煲和电热水壶。
工作人员无法回家,也无法确认家人的安危,只能躲在设施中照顾老人。
一名职员失踪,无法联系上。
那个人在两周后才确认存活。还活着。
职员全部生还。
设施内,除了当天日常护理的使用者之外,还有市内的数十名老人逃了进来。
家人开车把他们带回来,交给设施看护。
说是要去找孩子,希望把父母拜托给设施。
电梯和自来水都不能用。
去附近的泉水、水井打水。
无论是日常护理使用者,还是无法回家的员工,大家都平等地得到一个盐饭团和一杯味噌汤。
我拿带来的点心、巧克力交换了饭团。
那情景,至今仍历历在目。
设施全员确认生存,大家都没事,真是太好了。
但是,这次去机场买汽油的直升机没有回来。
因为汽油不卖。
去救援,自己也遇难,回不来了。
雪山登山救援队第二次遇难。
父亲圣道理事长也秘密地飞过来了,应该很担心吧。
电话和短信都接不通。
就在他们一筹莫展的时候,山形来的救援面包车陆续抵达。
完全复制西部片的车篷马车队前来营救的场景。
从来没有觉得湖山集团那么可靠。
那辆面包车送我到了福岛的二本松特养老人院。
我以为他会送我到东京,结果他说明天要用这辆车,要回山形了。
工作优先是理所当然的,但此时此刻我却束手无策。
二本松的设施大厅很宽敞。
那里铺着一地棉被,睡满老人。
不过,大家都很开朗,邻里之间聊天。
就像修学旅行的旅馆。
实际上都是当地的同学,都是熟人。
虽然没有扔枕头,但我想他们一直聊到了深夜。
到了深夜2点左右,静冈来了一辆救护车。
为了应对东海大地震,医院的车辆都拿到了急救车辆的许可证。
正因为如此,才得以在无人的高速公路上行驶。
在受灾地,遇到了意料之外的同伴。
到处都是眼泪。意识到活着的可贵。
用那辆救护车把我送到东京。
虽然在回程的加油站想买汽油,但被告知不能卖给普通人。
我生气了。
没看到这辆白色的救护车和红色的十字吗?
如果今天这辆救护车回不了医院,就会危及患者的生命。
你能负起责任吗?
气愤至极。压力很大。
然后,我买到了汽油,顺利地踏上了返乡之旅。
我坐直升飞机去气仙沼要两个半小时。
回程坐湖山集团宅急便花了24小时。
那时湖山集团的救援行动非常出色。
在彼此完全联系不上的情况下,每个人都根据自己的判断在全国展开救援。
我也被这样的湖山集团救出了。
那时的二本松的特养老人院又遭灾了。
面对第二次战斗没有犹豫。
无论多少次,我们都要战斗。活下去。

2.日文【2月14日】10年前の3.11

昨夜11時頃の地震で目が覚めた。
10年前の東日本大震災3・11の余震だそうだ。
あの時は、地震は金曜日の昼だったと思う。
そして、私は、3・13日曜日に、3台のヘリコプターで、救援物資を満載して、気仙沼に飛んだ。
煙をあげる原子力発電所の上を飛び、眼科の海岸に、人が打ち上げられているのを見ながら、2時間半で、気仙沼の老健の駐車場に舞い降りた。
暗い玄関に入ると、ロビー、デイにお年寄りが150名位いた。
突然の来訪者を見ようと、大勢、玄関に押し寄せた。
奥を見ると、デイに布団、マットが敷かれていた。
まず、ダンボール箱を壊し、ダンボール板を布団の下に引いて貰った。
兎に角、寒い。
土曜日に雪が降った。
気仙沼海岸の老人保健施設の入居者は、屋上に逃げたが、その屋上で多くのお年寄りが凍えて命を落とした。
夜中に雪が降ったのだ。
3分の1のご利用者が凍死したと聞いた。
建物の中でも、電気ガス水道が止まり、凍えそうなくらい寒かった。
施設の中は、真っ暗で、事務所の中の非常電源で、炊飯器と電気ポットを使っていた。
8台の炊飯器と電気ポットが床下に並んでいた。
職員は自宅に帰る事もできず、家族の安否も確認できない中、施設に籠もって、介護をしていた。
一人の職員が行方不明で連絡がつかなかった。
その人は、2週間後にやっと、生存を確認できた。生きていた。
職員の死者はゼロだった。
施設内には、当日のデイの利用者の他に、市内の老人が数十名逃げ込んでいた。
家族が車で連れてきて、預けていくのである。
子供を探しに行くので、親を預かって欲しいと。
エレベーターも、水道も動かない。
近くの湧水、井戸に汲みにいく。
利用者も、帰宅不能のスタッフも、皆平等に、塩おにぎり1個と味噌汁1杯。
私は、持ってきたお菓子、チョコと交換で、おにぎりを貰った。
その光景は、今も目に焼き付いている。
施設の生存確認を済ませて、皆無事だ、良かったと思った。
でも、今度は、帰りのガソリンを空港に買いに行ったヘリが戻らない。
ガソリンを売ってもらえなかったのだ。
救援に行って、自分も遭難し、帰れない。
雪山登山の救援隊の2次遭難。
父聖道理事長にも秘密で飛んできたので、心配しているだろうな。
電話もメールも通じない。
途方に暮れている所に、山形から、救援ワゴン車が続々到着した。
西部劇の幌馬車隊が救出に来てくれたシーンそのまま。
あれ程、湖山Gが頼もしく思った事はない。
そのワゴン車の1台で、福島の二本松の特養迄送って貰った。
東京迄、送ってくれるのかと思ったら、翌日のデイでこの車を使うので、もう、山形に帰ると言う。
仕事優先は当然だが、この時ばかりは、途方に暮れた。
二本松の施設はロビーが広い。
そこには、布団が一杯敷かれ、お年寄りが寝ていた。
でも、みんな明るく、隣同士でおしゃべりをしていた。
修学旅行の旅館みたい。
実際、地域の同窓生で、知り合いばかり。
枕投げはなかったが、深夜迄話込んでいたと思う。
そして、深夜2時くらいになったら、静岡から、救急車が到着した。
東海大震災に備えて、病院の車両は、救急車両の許可証を貰っておいた。
そのおかげで、無人の高速道路を走れたのだ。
被災地での、想定外の仲間の遭遇。
どこでも涙涙。生きている事のありがたさ。
その救急車で、東京に下ろしてもらった。
帰路インターチェンジでガソリンを買おうとしても、一般人には売れないと言う。
私は怒った怒った。
この白い救急車と赤い十字が見えないか。
もしも、今日中にこの救急車が病院に帰れないと、患者の命に関わる。
あなたは責任を持てるのか。
怒った怒った。だいぶストレスが溜まっていたのです。
そして、ガソリンをゲットして、無事、帰郷の旅となりました。
私は、気仙沼行きは、ヘリで2時間半。
帰りは、湖山G宅急便で24時間かかりました。
あの時の湖山Gの救援行動は素晴らしかった。
お互いに連絡が全くつかない状況で、各人は自らの判断で全国で救援に動き出した。
その湖山Gに私も救出された。
あの時の二本松の特養がまた、被災にあった。
2度目の戦いは迷わない。
何度でも、私達は闘う。生きる。

3.解説【2月14日】10年前の3.11

  • 昨夜、東北地方を中心に最大震度6強、マグネチュード7.3の大きな地震がありました。
  • 代表はそれを機に、3・11東日本大震災の時、気仙沼の老健に支援に行ったことを回顧しています。
  • 行きはヘリで行き、現地での救助活動の苦労、帰りは燃料の確保に窮したことなどに触れています。
  • その時の経験があるからこそ、湖山Gは今回の被災地に対する救援にも迷わず行動できるでしょう。

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用户7825 用户7825
5 个月前
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